黄金の国 平泉 The Golden Land of Hiraizumi

※この映像は中尊寺の許可を受けています。

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インフォメーション

「荘厳(そうごん)な佇たたずまい、黄金の輝きが観る者を圧倒する中尊寺、金色堂(こんじきどう)。
いまからおよそ900年前の1124年、極楽往生(ごくらくおうじょう)を願う藤原清衡(ふじわらのきよひら)によって建立されました。100年の長きに渡り奥州を治めた藤原一族の栄華を象徴する金色堂。この黄金の霊廟(れいびょう)には藤原清衡、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、そして泰衡(やすひら)の亡き骸(なきがら)が安置されています。
・金色堂(金色堂内陣中央壇、持国天、増長天、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来)

金色堂を守る覆堂(おおいどう)。金色堂を擁する中尊寺は、慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)によって開山され、清衡が多くの堂塔伽藍(どうとうがらん)を建立した奥州藤原ゆかりの寺です。
現在でも、中尊寺には三千を超える国宝が残されています。
・金色堂覆堂(金色堂新覆堂外観、金色堂旧覆堂外観)

中尊寺境内に残される重要文化財指定建造物。
仙台藩主伊達家が1853年に竣工した中尊寺(ちゅうそんじ)鎮守(ちんじゅ)白山神社(はくさんじんじゃ)能舞台(のうぶたい)です。
・中尊寺経蔵
・弁慶堂
・中尊寺本堂
・中尊寺境内
・中尊寺鎮守白山神社能舞台

五輪塔の原型を成すと伝えられる願成就院宝塔(がんじょうじゅいんほうとう)。
釈尊院五輪塔(しゃくそんいんごりんとう)。石塔では日本最古の仁安(にんあん)4年の銘(めい)が刻まれています。
金色堂脇に建立されている芭蕉の句碑には、五月雨(さみだれ)の降のこしてや光堂(ひかりどう)が刻まれています。
俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)が平泉を訪れたのは、およそ300前のことでした。
・願成就院宝塔
・釈尊院五輪塔
・芭蕉の句碑(金色堂脇に建立):五月雨の降のこしてや光堂
・松尾芭蕉(1644年~1694年)

現在、藤原氏繁栄の面影を留めるのは、中尊寺と毛越寺(もうつうじ)だけになってしまいました。
平安末期の様式を残す浄土(じょうど)庭園(ていえん)、極楽浄土(ごくらくじょうど)を表現したと言われています。
大泉(おおいずみ)が池には竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船が浮かべられ船遊びが行われました。
毎年5月の第4日曜に催される『曲水(ごくすい)の宴(えん)』。900年の時を超え、いまによみがえる宴(うたげ)。 平安の雅(みやび)な歌遊びが再現されます。
・毛越寺
・遣水の流れ
・浄土庭園
・竜頭鷁首の船
・曲水の宴

毛越寺は藤原二代基衡(もとひら)が建立し、さらに三代秀衡(ひでひら)の時代にかけて造営されたと伝えられています。
高館の句碑には、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」の句が刻まれています。
芭蕉はこの地に立ち、奥州藤原氏百年の栄華を偲(しの)びました。毛越寺の東に位置する観自在王院(かんじざいおういん)跡。 観自在王院は藤原二代基衡の妻が建立したと伝えられています。 この地には、藤原一族が安寧(あんねい)を祈願した無量光院(むりょうこういん)がありました。 京都の平等院を上回る芸術の粋(すい)を極めた寺院だったといわれています。
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)。 延暦(えんりゃく)20年、西暦801年に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって造営されました。岩に彫刻された仏像、磨崖仏(まがいぶつ)には、合戦(かっせん)に勝利した源頼朝(みなもとのよりとも)が参拝したとも伝えられています。
・アヤメ祭り
・延年の舞(常行(じょうぎょう)堂)
・高館の句碑:夏草や兵どもが夢の跡
・高館義経堂
・観自在王院跡
・無量光院跡
・達谷窟毘沙門堂
・磨崖仏

平泉の地に都を開き莫大(ばくだい)な財力で黄金の国を築いた奥州藤原氏。
当時の平泉は京都、鎌倉と並ぶ文化都市として大いに栄えたと伝えられています。 しかし奥州に逃れ来た源義経(みなもとのよしつね)をかくまったことが仇(あだ)となり、藤原の世は終わりを告げます。
源頼朝率いる28万の軍勢が平泉に侵攻、黄金郷は陥落しました。
・藤原祭り(源義経公東下り行列)
・合戦の様子

往事(おうじ)を彷彿(ほうふつ)とさせる仏教寺院、浄土庭園(じょうどていえん)などが点在する平泉。
豊かな自然環境と一体となったその『文化的景観』は世界的にも貴重な文化遺産として注目、評価されています。
・平泉の自然豊かな情景

画像・写真素材提供:中尊寺、毛越寺
映像素材提供:中尊寺、毛越寺

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